History 歴史
Mt.Nasu Lamp no Yado Sandogoya Onsen Daikokuya Elevation 1,450metre
Legend of Onsen
温泉の伝説
三斗小屋温泉の発見は1142年とされています。
かつて奥州信夫郡(現:福島市)に信心深い生島某という富豪がいましたが、零落し、ついには難病にも取りつかれてしまいました。
多くの医者や薬も効なく、家を捨て、方々の名湯を巡り湯治を試みましたが病は癒えませんでした。
杖を頼りに山野を越えて行くものの、体も弱りついに終わりかという夜、夢に大黒天を名乗る客人が現れました。
大黒天は、自らのことを信仰してきた信心深い生島氏を憐れみ、病を治す温泉があるので、明朝現れる白鹿に乗っていくようにと告げました。
生島氏は不思議なことだと思いつつも、大黒天の霊験があらわれたものと感激し、夜通しお祈りをあげて夜明けを迎えました。
すると、そこへ夢のお告げのとおり大きな白鹿が現れ、その背に乗った生島氏は、夢うつつのうちに今の温泉のところへたどり着きました。
辺りに人の気配はなく、ただ岩上より滝水がとうとうと落ちているばかり。その水を一滴飲むとあたかも薬液を服用したようで、夢想した温泉はこれだと確信し、入浴を始めました。
三日が過ぎると、紫雲が空にたなびき異香が四囲に漂い、光が差し再び大黒天が姿を現わし、次のように告げました。
「努めて十日の二倍、二十日湯治をすれば三十二種の病、その他いかなる業病、難治の症であっても平癒するであろう」
生島氏はこのお告げを神感肝に銘じて謹んで湯治すると、全身の業病はことごとく平癒したといいます。
病気が快癒した後も、生島氏は、多くの人を連れてきたそうです。
その頃は板室からの谷川には橋もなく、三つの古谷を渡ることを人々は愁いたので、「三渡古谷」が土地の字となったそうです。
三斗小屋温泉神社
建造物 三斗小屋温泉神社本殿
【那須塩原市指定文化財 昭和44年7月10日指定】
三斗小屋温泉から隠居倉方面へ石段を数分登ったところにあります。一間四方の欅造りの小さな社は精巧な彫刻が施されたものです。日光東照宮の造営にあたった彫刻師が三斗小屋温泉に保養に来たときに作成したものと伝えられています。
三斗小屋温泉神社の創建年は明らかではないが、三斗小屋温泉は康治(こうじ)元年(1142)に福島県信夫郡の生島某の発見と伝えられている。三斗小屋温泉は那須(茶臼)岳の裏側、通称「奥那須」と呼ばれる所にあり、標高は約1460メートル。神社の社殿は温泉宿の東約70メートルのところ、137段の石段を上った山道わきに社殿がある。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。
引用元:https://www.city.nasushiobara.lg.jp/soshikikarasagasu/shogaigakushuka/bunkazai/2/2/2608.html
神殿は一間四方の欅(けやき)造り。柱を飾る上り竜と下り竜、貫(ぬき)の先端の竜頭欄間(らんま)や内・外部壁面の彫刻が巧緻精麗(こうちせいれい)で大変素晴らしいものである。製作にあたっては、相当の年月と費用を要したことが推察される。なお、これら一連の彫刻は日光東照宮の造営に携わった彫刻師が、保養に来た際に製作にあたったとの言い伝えもある。
さらはとや
無連都々 人の登飛来羅牟
この湯にいえ奴 屋まひなけ礼波
それではと 山を登った その先に 人々の行く 百薬の湯
読み
「さらばとや むれつつひとの といくらむ このゆにいえぬ やまいなければ」
意味
「それではと 山を登った その先に 人々の行く 百薬の湯」
Kanji of Sandogoya
サンドゴヤの漢字
「さんどごや」の漢字は、上述の「三渡古谷」のほか、様々な書き方が存在していました。
温泉の歴史が書かれた文献として、「下野國三斗古谷温泉傳記」があります。
また、シズノ平には「明和六丑七月 三計小屋」の碑があり、ほかにも同様の碑があることから、往時は「三計小屋」と書くのが正しかったと思われます。
時は流れ、いつからか「三斗小屋」という表記を使うようになりました。
これには、「温泉宿(小屋)ができたが、3斗(約54リットル)の米を背負っていくのもやっとの奥地にあることから、このような字を用いるようになっていった」等、諸説ございます。
※斗:尺貫法における体積の単位
Transition
Transition
宿の変遷
1869年頃までは、大黒屋のほかに、柏屋、三春屋、佐野屋、生島楼(生島屋)の5軒が営業。
1891年には、大黒屋、三春屋、佐野屋、生島楼(生島屋)の4軒に。
1911年頃、黒磯駅前にあった煙草屋旅館の支店が進出し、三春屋、生島屋が転出。大黒屋、佐野屋、煙草屋の3軒に。
大正時代に佐野屋は営業をやめ、大黒屋、煙草屋の2軒となり、現代へ続く。
Post town
三斗小屋温泉と旧宿場
三斗小屋温泉から小一時間ほど下ったところに、温泉宿とは別に、三斗小屋宿という宿場がありました。
元禄時代会津中街道の開墾後、三斗小屋宿を通る街道は会津藩主の参勤交代の通り道、生活物資の輸送などに使われました。
三斗小屋は宿駅として栄え、その後は白湯山参りの行者で賑わいました。
前述した戊辰の役で全村焼失し住民からも犠牲者を出すなど甚大な痛手を被り、更に明治37年別の新道が開通した後昭和32年最後の住民の転出を以って廃村となりました。
明治元年の記録によると戸数14戸、人口63名、馬47頭とあり、最盛期には更に多くの人々が生活を営んでいたものと思われます。
現在三斗小屋宿跡には大日如来像や石灯籠等白湯山信仰関係のものが残っています。
三斗小屋温泉への人の往来は、江戸時代までは主に板室から麦飯坂を経て、この宿場跡を通ってくる道が使われておりました。江戸時代後期、温泉宿ができた頃から、那須湯本から峠を越えて三斗小屋温泉へ来る人が増えていきました。その頃から駕篭による人の移動も始まったようです。
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かつて三斗小屋宿から三斗小屋温泉までの荷運びには馬が活躍していました。しかし、太平洋戦争終盤となると、餌を確保することも難しくなり、馬は手放す事に。以後は、那須湯本からの歩荷が主流になりました。昭和48年に深山ダムが完成し、さらに堰堤建設のためにダム〜宿跡間の荒れていた林道が補修されると、平成のはじめに当館ではその上の登山道の再整備を行い、かつて馬の通った宿跡から温泉までの道のりは、無雪期の荷揚げに再び活用されるようになりました。
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昭和20年代はじめまでは、那須湯本から三斗小屋温泉へ向かう湯治客を乗せた駕篭(かご)がありました。1つの駕篭に対して4人の担ぎ手が輸送にあたり、2人ずつ交代で背負いながら山を越えてきました。当時は数週間から一ヶ月前後滞在される方が多く、荷物も少なくなかったようです。男性が戦争へ行ってしまった時代には、女性の担ぎ手も活躍したそうです。
Mountain worship
白湯山信仰
白湯山とは茶臼岳西側下方8合目付近の白濁したお湯が流出しているあたりを指し、御宝前の湯とも呼ばれています。
「白湯山信仰」は「三山がけ」という信仰形態になっていました。
「三山」とは白湯山、月山(茶臼岳)、朝日岳のことを指します。
三斗小屋宿を出発し、両部の滝を通って白湯山へ。それから月山(茶臼岳)と朝日岳に登り、三斗小屋宿へ戻ります。
五穀豊穣、無病息災を祈願して行われましたが、成人儀礼として行う地方もあったそうです。
お山参りを出した家族は「今日はお山だから」とお籠りをし、無事にお参りを果たして帰宅することを祈願しました。
今も石仏が残る三斗小屋宿跡は、市の指定文化財となっています。
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再建された鳥居。そのすぐ眼前は江戸時代の山津波により崖となっていますが、かつての白湯山信仰の入口として白湯山方向を向いています。
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現在の大黒屋別館は、かつて白湯山信仰の仮社務所としても活用されていました。
Books
書籍紹介
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「三斗小屋温泉誌」
三斗小屋温泉の歴史について、五代目館主高根沢大蔵と有志の方々により編纂されたものです。
宿場跡や戊辰戦争との関わり、那須の動植物、気候、三斗小屋の文化史についてまとめております。 -
奥那須と共に
三斗小屋温泉150周年記念誌戊辰戦争にて焼失後、その翌1869(明治2)年に再建されてから150年という歳月を経た三斗小屋温泉大黒屋本館。
150周年記念シンポジウムの採録に併せ、三斗小屋温泉とゆかりの深い人たちの寄稿と奥那須の美しい写真を多数掲載しました。
書籍は宿での販売のほか、全国発送も承っております。お電話ください。
TEL0287-74-2309(平日 8:30~18:00)
Paper
論文紹介
那須岳三斗小屋温泉大黒屋の復元的考察-湯の信仰にねざす山小屋建築
日本建築学会技術報告集 第28巻第68号, 2022.2
https://doi.org/10.3130/aijt.28.465
筆頭著者:奥矢恵
京都府立大学大学院 生命環境科学研究科 准教授・博士(学術)・一級建築士
https://okuya-lab.net/
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